令和2年(2020年)9月7日に、当サイト「備後とことこ」が開設されました。
しかし、それと前後して備後地方、とくに福山市民にとって衝撃のニュースが入ってきたのです。
それは「大衆食堂 稲田屋 (いなだや)」が、令和2年9月23日の昼をもって営業を終了するというもの。
稲田屋は創業100年を超える老舗。
親・子・孫の三代で通うお客さんもいます。
名物の「関東煮 (かんとうに)」と「肉丼 (にくどんぶり)」は、福山人の心の味といわれるほど地域で愛されているのです。
そんな稲田屋がなくなるということで、最後の営業までにもう一度稲田屋の味を楽しみたいと、多くのお客さんが店頭に行列をなしました。
それほど、福山では大きなニュースとなったのです。
そこで稲田屋を運営する株式会社 稲田屋に取材を申し込み、代表で店主の稲田 正憲 (いなだ まさのり)さんにインタビューをおこないました(取材日は令和2年9月11日)。
記事内では後継の可能性にも触れていますが、令和2年9月11日の取材時点では後継は確定していません。
また令和2年9月23日の営業終了までの運営組織・株式会社 稲田屋は閉店となります。
それらの点をふまえて、当記事では「閉店」として記事を書いています。
令和2年12月15日、株式会社 稲田屋から株式会社 阿藻珍味への事業譲渡がおこなわれました。
詳しくは、以下の記事を見てください。
記載されている内容は、2020年9月記事掲載時の情報です。現在の情報とは異なる場合がございますので、ご了承ください。
目次
稲田屋は福山で大正時代に創業した大衆食堂
稲田屋は福山市民、とくに市街地周辺に住む市民にはおなじみの店でした。
創業は、なんと大正8年(1919年)です。
取材時点(令和2年9月)でなんと101年の歴史。
場所は、JR福山駅から南東へ約600メートルの地点にありました。
船町商店街(ジョイふなまち)の中です。
ちょうど、船町商店街と本通商店街が交錯するところ。
稲田屋名物の「関東煮(かんとうに)」と「肉丼(にくどんぶり)」は長年にわたってお客さんから愛され、もはや福山名物といってもいいほどのソウルフードでした。
私は福山市出身ではないですが、福山育ちのかたから稲田屋についていろいろな話を聞いたことがあります。
- 「盆や年末年始に親戚が集まるとき、稲田屋の関東煮を大量に持ち帰りした」
- 「福山中心部に用事があったとき、親によく稲田屋に連れて行ってもらった」
- 「仕事の昼食や、仕事帰りによく利用した」
- 「学校帰りにお腹が空いて、稲田屋でよく肉丼を食べた」
- 「近くにあった映画館に行ったとき、稲田屋に寄って食べるのが定番だった」
親子孫三代にわたって利用するお客さんも多く、福山を離れたかたが昔を懐かしんで来店することも。
さらに「稲田屋は福山市民の心の味」という話を聞き、県外からもお客さんが多かったそうです。
稲田屋は、福山の食文化を語るうえで外せない店といってもいいかもしれません。
▼そのため稲田屋の閉店が報道されたあと、令和2年9月第2週以降は開店前から長蛇の列が発生しました。
それほど福山の人間にとって、大きな衝撃だったのです。
稲田屋 店主・稲田正憲さんにインタビュー
福山市民の憩いの台所ともいえる稲田屋ですが、令和2年(2020年)9月23日をもって営業を終了。
101年の長い歴史に幕が下ろされます。
福山の食文化を語るうえで外せない存在となっていた稲田屋。
そこで、稲田屋を運営する株式会社 稲田屋の代表で店主の稲田 正憲さんにインタビュー。
稲田屋を閉めるという苦渋の決断に至った理由、稲田屋の歴史、今までの思い出などの話を聞きました。
代替わり30年目を目前に苦渋の決断
稲田 (敬称略)
ひとつめの理由は、私の体調悪化です。
今年(令和2年)の初めごろ、膝を悪くしてしまいまして…。
長年にわたり長時間立ち仕事をしてきましたので、その影響だと思います。
だいたい週6日、朝午前4時から晩は午後9時台まで働いていましたので…。
正直、年齢的に大変だったときもありました。
ふたつめの理由は、お客さんの減少です。
当店には長いあいだ常連として利用されていた、お勤めのお客さんがたくさんいたんですよ。
でもその多くが、ここ数年で定年退職されてしまいました。
退職されると、稲田屋まで行く機会が減りますし、収入がなくなるのでお金の使い方もシビアになってしまいます。
それに少子高齢化で働き手も減っているから、辞めたかたのぶんだけ新しいかたが働き始めるというわけではありませんし。
なんとか踏ん張っていたところへ、今年(令和2年)に入ってからの新型コロナウィルス感染症の影響が加わりました。
外出自粛、企業のテレワークの増加、学校の休校などで、お客さんが減少する時期が予想以上に続きまして……
これらの要因が同時に重なって、今がちょうどいいタイミングなんじゃないかと。
店を引き継いだ以上、限界ギリギリまで行きたかったんですが、今がそのときと思ったんです。
実は来年で、私が店を引き継いでちょうど30年目の節目の年だったんです。
できればせめてもう1年やりたかったのですが、無理をして体を壊したり、資金面での負担を大きくしてもいけませんから、苦渋の決断に至りました。
稲田
従業員も私の体調のことは知っていましたし、お客さんの状況ももちろん知っていたので、仕方がないというような反応でした。
とくに新型コロナウィルス感染症の影響は大きかったので、従業員も危機感は持っていたようです。
稲田屋の歴史は、実は101年以上!?
稲田
創業は、大正8年(1919年)を公称しています。
なので令和2年で101周年ですね。
創業したのは私の曾祖父。
その後、祖父・祖母・父を経て、私が五代目です。
常連のお客様のあいだでは有名な話なんですが、現在の福山市加茂地区出身の小説家・井伏 鱒二(いぶせ ますじ)さんも当店に通っていたんですよ。
井伏さんは、今の福山中央図書館の場所にあった旧制福山中学校(広島県立福山誠之館高等学校の前身)に通っていたとき、当店を利用していたそうです。
ただ井伏さんが旧制中学に通っていたのは明治末期から大正初期にかけての時期。
となると、少なくとも当店は明治末期から大正初期には営業していたことになります。
しかし詳しいことが記録に残っておらず、正確な創業年はわかりません。
そのため、ハッキリと明言できる大正8年を創業年として公称しているんです。
稲田
いいえ。
創業したのは当時の福山駅前の新馬場町(しんばばちょう)というところです。
近くに大きな紡績工場が2つありまして、そこで働いているかたがたくさん来ていたようですね。
昭和一桁年代に船町に移転しました。
記録がないので正確な時期はわかりませんが、昭和8年(1933年)ごろではないかと思います。
その後は移転せずに令和2年まで同じ場所で営業していますが、昭和20年(1945年)8月8日の福山空襲で被災し、店舗は全焼しました。
戦後、昭和24年(1949年)に再建しています。
再建後は建て替えていませんので、築71年の建物になるんですよ(取材時=令和2年9月時点)。
料理の素人からたたき上げで奮闘
稲田
やはり長く続いていて、たくさんのお客さんに愛されている店ですからね。
誰かが継いでいったほうがいいと思ったんです。
父は写真家をしていたんですが、跡を継ぐために途中で写真家をやめて稲田屋を継ぎました。
そういうのを子供のころから見ていますし。
ただ父と違って、私は最初の就職が稲田屋でした。
稲田
父は具体的なことなどを直接教えてくれなかったから、最初は大変でしたね(笑)。
しかも、私は調理の仕事の経験がありません。
だから最初のころは、まったく何もわかりませんでした。
もう、見よう見まねでやるしかありません。
何度も繰り返し味を試してみて、やっと少しずつ店の味がわかってきました。
私は板前修業やコックの修業をしていない、料理のド素人からのたたき上げなんですよ。
そして平成2年(1990年)、私が稲田屋を継ぎました。
それからは、さきほど言ったように週6日で長時間、稲田屋の仕事をひたすら続けてきた感じですね。
思い出は、令和元年(2019年)の創業100周年のとき。
すごく馬鹿なことなんですが、100周年を記念して採算度外視で黒毛和牛と高級ブランド豚肉を使った肉丼をつくったんですよ。
あくまで非売品としてなんですが(笑)。
100周年でいろいろ贈り物や花をいただいたかた・従業員・家族など、お世話になったかたにふるまいました。
大変好評でしたし、実際に自分で食べてもおいしかったですね。
ステーキよりもおいしかったんですよ。
さすがにメニューには出せませんでしたが…。
名物の関東煮・肉丼は時代に合わせて変化
稲田
まず関東煮ですが、曾祖父と祖父が大阪で教えてもらったそうです。
大阪で教わった関東煮を、福山人が好むような味付けにしたようですね。
稲田
それが、福山の味ですね。
福山という地域の味は甘めなんです。
そのなかでも、稲田屋は甘めだと思います。
ちなみに関東煮は、白(ブタの小腸)と黒(ウシの肺)の2種類あります。
稲田屋の関東煮の味は、白=ブタの小腸の味がポイントなんですよ。
白から染み出たうまみが関東煮をおいしくするのです。
白の特有のうまみが楽しめ、クセになるんですよ。
黒はあまり味がなくクセが強いため、好き嫌いがハッキリしていますね。
昔、黒はあまり人気がなく、通好みのものでした。
しかし、近年になって黒も白と同じくらい人気になりましたね。
ちなみに関東煮が一度に売れた最高記録は、500本。
意外にも地元のかたではなく、岡山の郵便局のかたでした。
衣装ケースで持ち運びしていましたね(笑)。
1年で一番売れる時期は、年末。
最高は1日で4,000本売れました。
年末の3日間で20,000本も売れたときもありましたね。
稲田
創業当初は関東煮も肉丼もありませんでした。
関東煮を稲田屋で出すようになったのは、昭和の初めごろですね。
ただ、ずっと提供してきた関東煮ですが、実は時代によって味は変わっているんですよ。
昔に比べて、味付けは薄めになっています。
つくり方も変化していて、煮て味を付けたあと、もう一度煮てから売っているんです。
昔は一度で煮込んでいたので、味付けは濃いめでした。
以前は本当によく売れていたので、そうやって短時間で味付けできるようにしていたんです。
しかし、二度煮込むのですから味付けは薄めにしておかないと、味が濃すぎてしまうんですよ。
二度煮るのは、以前よりも関東煮が売れる間隔が開いたからです。
そうなると長時間煮てしまいます。
長時間煮てしまったら肉がボロボロになってしまうから、二度煮るようにしました。
稲田
そうですね。肉丼も変わっていますよ。
肉丼を出し始めたのは、戦後になってから。
しかも最初のころは鶏肉も入れていました。
その後、試行錯誤の末に牛肉と豚肉の両方を使う形になったんです。
しかし、時代によって牛肉と豚肉の配分が変わっています。
昔は豚肉の割合が多く、豚の脂がたくさん入っていました。
だから豚の脂の味わいがポイントだったんです。
その後、肉丼の牛肉と豚肉のバランスは、牛肉の割合を多めに変えました。
牛肉の赤身を中心にして、豚肉の脂身は少なめにしたんです。
お客さんの好みも時代が変化するにつれて変わるんですよ。
稲田
お客さんがですね、食べ終わった肉皿の上に、豚肉の脂身だけをキレイに一列に並べて帰るんですよ。
無言のアピールですよね。
豚の脂をなんとかしろという。
こっちも悔しいですから、いろいろ変えてみました。
するとお客さんも残さなくなりましたね。
さきほど牛肉の赤身の比率を増やしたと言いましたが、そうなるとボリュームが軽く感じてしまうんですよ。
すると「量を減らした?」「味を薄くした?」と勘違いするお客さんもいましたね…。
もちろん、そこは変えていませんよ(笑)。
それでいろいろ考えてみて、黒毛和牛を少しだけ入れてみました。
稲田
実はそうなんですよ(笑)。
すると、お客さんも満足感や味付けの濃さも納得されたのか、何もいいませんでしたね。
稲田
昔から関東煮のほうが人気があります。
関東煮は持ち帰りができるので、家庭で食べられるというのも大きいでしょう。
ただ、全国丼連盟という組織が主催する「全国丼グランプリ」の西日本肉丼部門で、平成27年(2015年)から5年連続で金賞をいただきました。
これ以降は、肉丼の人気がかなり高まりましたね。
県外からのお客さんも増えましたし、テレビ番組の『いきなり!黄金伝説。』も取材に来ました。
それと肉丼の具材のみの「肉皿」があるんですが、これは九州のかたに人気なんですよ。
妻の実家が九州なんですが、肉皿を持ち帰ったらとても好評で。
九州のかたは、関東煮より肉皿のほうが好みのようです。
稲田
詳しくはわかりませんが、いろいろ出していたようです。
そのなかでメインだったのは、うどんだったと聞いています。
跡を継がしてほしいという声ももらっているが……
稲田
実は、ありがたいことに数人のかたから跡を継ぎたいという声をいただいています。
私も、信頼できそうなかたに継いでもらえればうれしいという思いもあるんです。
でも、後継というのは簡単なことではないんですよね。
料理の味の継承だけなら、信頼できる人だったら私は指導します。
しかし、そこへ稲田屋という店の「看板」も関わってくると、いろいろと乗り越えなければならない壁が出てくるんですよ。
だから後継の希望はいただいていますし、私も継いでほしいという希望もあるんですが、うまく壁が乗り越えられるかは、現段階(令和2年9月11日の取材時点)ではわからないとしか言えないんです。
閉店にあたってメッセージ
稲田
本当に長きにわたって、福山のお客さんに愛されてきたと痛感しています。
私が店を継いだときから、その看板の重さは感じていました。
その重さに潰されそうになったことも何度もあります。
責任感と自分の生活のため、とにかくガムシャラにひたすら仕事をやってきました。
アッという間の30年だったと思います。
そしていざ店を閉めるとなると、自分の感じていた重さ以上に、稲田屋の看板は重かったと感じています。
ものすごい反響でして、閉店が決まってから連日早くよりイスを持ち込んでまで行列をつくっていただいたりし、驚きました。
閉店の決定からは、毎日昼12時台には売り切れるほど。
関東煮は1人あたりの本数制限をしないといけないほどで、本当に驚いています。
これほどまでに地域に愛されている稲田屋ですから、私もなんとかして稲田屋の看板や店・関東煮・肉丼などを残していきたいです。
ただ、さきほどのように稲田屋を残していくためには、乗り越えなければならない壁があります。
私も稲田屋を残すために最善を尽くすつもりです。
しかし、もしかしたら願いがかなわないかもしれません。
そのときは、地域のみなさまには大変申し訳ありませんが、どうかご理解のほどよろしくお願いいたします。
稲田屋の店舗のようす、メニューなどを振り返ってみましょう。