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御舟宿いろはの松居 大祐さんへインタビュー
坂本龍馬も訪れた歴史ある町家が、宮崎駿監督のデザインで現代に食事処・宿として生まれ変わった、御舟宿いろは。
スタッフの松居大祐 (まつい だいすけ)さんへインタビュー。
開業の経緯や再生されるまでのいきさつ、今後の抱負などについての話を聞きました。
インタビューは2020年12月の初回取材時に行った内容を掲載しています。
歴史的に重要な町家が空屋になって売りに出され……
いろはのある建物は坂本龍馬も訪れたそうだが、なぜこのような歴史的建造物で店を始めることに?
松居 (敬称略)
いろはを開業したのは、私の母・松居秀子が携わっていた2003年(平成15年)設立のNPO法人 鞆まちづくり工房です。
鞆まちづくり工房は、鞆町内にある空屋の再生事業をおこなう法人として起ち上げられました。
鞆まちづくり工房の起ち上げの少しあとに、いきなり現在のいろはの建物に「売物件」の張り紙が出て、売りに出されたそうです。
母たちは驚き、「このままでは坂本龍馬にゆかりがある、歴史的に重要な建物がなくなるかもしれない」と危惧しました。
市役所に相談してみたそうですが、突然のことであるため、すぐに買い取ることは予算面で難しかったようです。
そこで、鞆まちづくり工房が売りに出された建物を買い取ることになりました。
支援を受けて歴史ある町家を再生、鞆の観光資源として活用
買い取りの資金はどうした?
松居
資金面が一番大変だったと聞いています。
空屋が増えている地区といえども、それなりの大きな金額は必要ですから。
坂本龍馬ゆかりの史跡ですので、龍馬の故郷・高知県で龍馬関連の活動されているかたを訪問したり、全国各地の龍馬の史跡に関わるかたが集まる「龍馬会」に協力を求めたりしたそうです。
いろいろと協力を得て、情報も発信していましたが、なかなか必要な金額の達成は難しかったと聞いています。
そんなとき、アメリカ・ニューヨークに本部がある世界の文化財保存の活動をしている団体「ワールド・モニュメント・ファンド」と、企業の「アメリカン・エキスプレス」から連絡が来たんです。
そして、歴史文化遺産を後世に残すため協力をしたいとのことで、アメリカン・エキスプレス社が支援してくれることになりました。
さらには、スタジオジブリの映画監督・宮崎 駿(みやざき はやお)さんからも協力したいとの話をいただき、支援してもらえました。
なぜ宮崎駿監督が協力を?
松居
スタジオジブリは、毎年社員旅行をするそうです。
それで、あるかたが鞆の浦に社員旅行に来てほしいとお願いしました。
すると、2004年(平成16年)にジブリが鞆の浦へ社員旅行をすることになったんです。
そのときに社員旅行への協力を要請されたのが、鞆まちづくり工房でした。
社員旅行で宮崎監督をはじめ、社員のみなさんが鞆の浦を気に入ってくれ、のちの支援につながったそうです。
買い取ったあとは、どのようにして現在の食事処・宿となった?
松居
鞆まちづくり工房が魚屋萬蔵宅を買い取ったあと、鞆の浦を気に入った宮崎監督は、2005年(平成17年)に鞆に滞在して静養しました。
そのとき、ちょうど萬蔵宅を修復するところだったんです。
ですから宮崎監督もこの建物が気になって、見学に来たそう。
しかもいろいろとデザインを考え、提案してくれたんですよ。
こちらからいっさいお願いすることはなく、自ら積極的に協力されたようです。
商店という形で残されている萬蔵宅でしたが、昔の天井や梁・柱などが残されていました。
だから宮崎監督は、昔の町家の形にもどしていくのが一番いいとアドバイスしたそうです。
そして、宮崎監督のデザイン提案やアドバイスを取り入れ、町家を修復しました。
ちなみに宮崎監督も「家は直角で構成されているイメージがあったが、実際は曲線もたくさんあるんだなぁ」と、新たな発見があったようですよ。
それと史跡を買い取った以上、これを活用していく必要があります。
しかし資料館やミュージアムのような形だと、収入面で施設の維持が難しくなる可能性が予想できました。
なので「古い町家に宿泊できる」ことを売りにした宿、そして鞆にゆかりのある料理を楽しめる食事処として営業していくことになったそうです。
いろはが開業したのはいつ?
松居
2008年(平成20年)5月にオープンしました。
昔ながらの町家にもどす作業だったため意外と時間がかかり、工事には約3年半かかりました。
ちなみに「御舟宿いろは」という店名は、宮崎監督の命名なんです!
由来は聞いていないそうですが、おそらく坂本龍馬のいろは丸事件の談判がおこなわれた場所なので、いろは丸に由来しているのでしょう。
映画「崖の上のポニョ」で鞆の浦が注目される
宮崎監督の作品『崖の上のポニョ』は、鞆の浦滞在中に考えられたと聞いたことがある。
松居
ちょうど御舟宿いろはの物件買取から再生作業のあいだの一時期、宮崎監督は鞆の浦に滞在し、その後もたびたび訪れていました。
そして、いろはの開業と『ポニョ』の映画公開は同じ2008年です。
ご縁を感じますよね。
実は2009年(平成21年)の『ポニョ』のDVD発売時のチラシに、宮崎監督が「鞆の浦はポニョのふるさと」というメッセージを出しているんですよ。
またジブリの鈴木敏夫(すずき としお)代表も「ポニョを頼んだぞ」という内容のメッセージをチラシに書きました。
これらの影響で、鞆の浦を訪れるかたが一気に増えたそうです。
その後、鞆の浦を舞台としてロケがおこなわれたTBSテレビ「日曜劇場『流星ワゴン』」でも、観光客が増えたと思います。
また当店など坂本龍馬関連のスポットは、坂本龍馬のNHK・大河ドラマの影響で注目されました。
ちなみに隣町・尾道出身の映画監督・大林宣彦(おおばやし のぶひこ)さんも、古くからたびたび鞆の浦を訪れていたんです。
生前最後の作品も鞆の浦でロケをおこない、当店を休憩所として使われました。
昔に比べ、鞆の浦観光は大きく変わったと。
松居
そうですね。映画やドラマの大きな影響があったと思います。
かつての鞆の浦は、ご年配向けの観光地でした。
仙酔島や弁天島などが見える海辺のホテルで一泊し、仙酔島に渡って帰るといったパターンが多かったと思います。
ポニョの公開を皮切りに、若いかたをはじめ、幅広い層が鞆の浦を訪れるようになりました。
しかも、街を散策するようになったのです。
以前は、あまり街中を歩いて回ることは少なかったように思います。
メディア業界から転身し、いろはの運営や鞆のまちづくりに携わるように
松居さんが、いろはに携わるようになったのは?
松居
私は鞆町出身なのですが、大学卒業後は東京でテレビ番組の制作会社で編集の仕事をしていました。
その後、新たな人生の道を見いだすきっかけになればとの思いで、世界一周の旅に出たんです。
旅を終えて、故郷の福山に戻り地元でカメラマン・画像編集の仕事をしていました。
その後、2016年(平成28年)ごろに母から「いろは」を手伝ってほしいという要請があり、いろはで仕事をするようになりました。
現在はいろはだけでなく、「そわか楼」「茶屋蔵」「つくろい空間」など関連店舗に携わったり、鞆地区のまちづくりにかかったりいろいろな活動もしています。
平日の鞆の浦にもにぎわいを
今後の展望ややってみたいことがあれば教えてほしい。
松居
鞆の浦は昔に比べて観光客も増え、活気が出たと思います。
しかし課題もありまして、休日と平日の観光客数の差が大きいんです。
ある程度は休日と平日の差があるものですが、あまりに差が大きすぎると店の営業が厳しくなります。
当店だけでなく鞆全体でまちづくりを考え、鞆を活性化させて平日にもにぎわいを生み出したいですね。
坂本龍馬の歴史と宮崎駿の世界観が融合した町家・御舟宿いろは
坂本龍馬と紀州藩が談判をおこなった歴史がある町家。
それに宮崎駿監督のユニークな視点でデザインされ、歴史と宮崎ワールドを体感できる、独自の建物となりました。
御舟宿いろは、龍馬ファン・ジブリファンにももちろんおすすめですが、それ以外のかたでも町家の雰囲気と地元の味が楽しめる店としておすすめ。
鞆観光の際に、ぜひ訪れてほしいスポットのひとつです。
御舟宿 いろはのデータ
名前 | 御舟宿 いろは |
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住所 | 広島県福山市鞆町鞆670 |
電話番号 | 084-982-1920 |
駐車場 | あり 4台 |
営業時間 | 【飲食】 午前11時〜午後2時 【宿泊】 チェックイン:午後3時〜午後5時まで チェックアウト:午前10時まで |
定休日 | 不定休 |
支払い方法 |
現金・PayPay 【宿泊】 現金・クレジットカード |
予約の可否 | 可 【食事】 7名以下は予約不可、7名以上は予約必須 【宿泊】 予約可能 |
座席 | 【1階:食事処】 全20席 ・2人がけカウンター席:2卓 ・4人がけテーブル席:1卓 ・8人がけテーブル席:1卓 ・4人がけ座敷:1卓 【2階:宿】 <部屋> ・かけおちもの部屋:3名まで(12畳) ・みんなで部屋:5名まで(8畳+6畳+6畳) <設備等> ・備品:歯ブラシ、歯磨き粉、フェイスタオル、石鹸、コップ、バスタオル、浴衣 ・風呂:あり(屋内共同) ・Wi-Fi:あり |
タバコ | 完全禁煙 |
トイレ | 洋式トイレ |
子育て | ・ベビーカー入店可能 ・幼児用食器あり |
バリアフリー | ・食事のみ車椅子入店可能 ・トイレは非対応 |
ホームページ | 御舟宿いろは |